自己愛性人格障害の思想

今までの人生で明らかな自己愛性人格障害者と少なく見積もっても6人と関わってきた。
その集大成として彼らの思想を説明していく。
ここに書いた事は妙に具体的で誰か特定の一人の言動について書いたものなのでは?と思われるかもしれないが、気持ちの悪いことに複数人に共通する言動であり思想なのである。

一般的に言われている自己愛性人格障害の症状や特徴、行動パターン、原因などは他のサイトや書籍に任せる。
それらを読んだ上でこの記事を読むことをおすすめする。
そしてここに書いた自己愛性人格障害の思想を理解することで、自己愛性人格障害の特徴や行動パターンを見ても腑に落ちるようになるだろう。

自己愛性人格障害の症状や言動については以下を参照。
自己愛性人格障害の特徴 詳細版 モラハラ加害者 [ モラハラ資料 ]

もし自己愛性人格障害者との関わりがない人がこの文章を読んでも何も理解できないでしょう。
関わりがなければ理解の範疇外なのは当然だし、そういう人が身近にいないのは幸せなことである。
今後そういう人が近くに現れたとしても理解し許容する必要はないが、理解し回避することは自分の為になるので覚えておいて損はないでしょう。
既に関わりを持ってしまった被害者はご愁傷さまでした。

これ以上自己愛性人格障害のために時間と労力を割くのは人生の無駄なので構成が雑で読みづらい文章かもしれないが何卒。
この記事を以って、自ら自己愛性人格障害者に近づいて観察する人生も終わりとする。

ルールを定める人格とルールに従う人格を持つ二層人格

はたから見れば彼らは共感性がなく傲慢だが、彼らにその意識はない。
それどころか、社会のルールに従い愚直に生きているとさえ思っている。

健常者は社会のルールに沿って生きているが、自己愛性人格障害者は自分のルールに沿って生きている。
彼らは、ルールを定める人格(社会)とルールに従う人格(主観)という2段階の人格で構成されている。
彼らは都合よく自分用のルールを作り、それに忠実に従っているのだ。

「ルールを定める人格」は彼らにとっては自分の主観とは切り離されている。
彼らは自分で定めたルールを社会全体のルールであり大多数の意見だと信じていて、自分が勝手に定めた自己都合のルールだと気づいていない。
そして「ルールに従う人格」のみを自分の人格だと思い込んでいる。
だから彼らにとっては自分自身は「ルールに従う愚直な人間」であり「社会の代弁者」のような振る舞いも目立つ。

「ルールに従う人格」がただ実直にルールに沿って事をこなし続けているだけという状況を作ることで、都合の良いことは自分の功績、不都合なことはルールに従っただけで自分に非はない、という身の守り方をする。
そうやって「ルールを定める人格」と「ルールに従う人格」で役割を分担しているのだ。
彼らはルールに誠実だという認識から自身のことを、多数派、普通、正義、だと信じて止まない。

ルールを作る→乗るの2段階は健常者にはない異常な思想であり、これが自己の形成に失敗した人格障害者の根幹。
自己の形成の失敗であり、世間と自分の同一視でもある。

偉人の名言や提唱されている理論が大好き

自己肯定するために他者との比較が必須な彼らは、自身を是とするための理由を常に求め続けている。

自己愛性人格障害の、ルールを作る→乗るの2段階の具体例。
偉人の名言を自分の信念として偉人と自分を同一視したり、社会学者や心理学者の提唱する法則やら理論を世界の真理として自分がいかに正しく優れているか・他者がいかに劣っているかの理由付けにしたりするのは見ていてわかりやすい。

これらの偉人の言葉や思想、提唱されている理論や法則、法律などをひとつの側面だけを見て都合よく解釈し自身を是とできるルールを自分で作り出している。
また自身を是とするために利用しているので、元の意味合いとかけ離れて解釈していることも少なくない。

奇妙な口癖「なんで?」

他者が自分とは異なるルールで生きていると「なんで?」と聞く。

これは一般的な用途とはずれていて、目的ではなく原理を問う用途にふりきっている。
知的欲求からの問いではなく、相手が言動や思想に至る理由を求めたり、価値観に対して聞いてくる。
相手には正当性を求め自分が理解し許容できるか否かで善悪を判断する。
そして相容れない相手には、相手がおかしなことを言っている、おかしな思想に至る原因(コンプレックスや嫉妬心など)が相手にあるんだ、と相手に問題があると結論づける。
その結果、相手を非常識な人間や精神的な病気だと扱ったり人格否定をしたりする。
お互いの価値観が両立することや自分が間違っているとは考えもしないのだ。

社会でなんで?なんて問い詰めれば普通にパワハラになるということにも気づかないし「それパワハラですよ」なんて言った日には「なんで?」と返ってくること請け合い。

これを起因として自己愛性人格障害者は子育てに失敗する。
子供のなぜなぜ期を上手く接することが出来ないし、子供に対して責任を負わせる言動が多い。

奇妙な口癖「違うの?」

他者から自分のルールについて理由を求められたり指摘されると「違うの?」と不思議がる。

これもルールを作る→乗るの2段階がその人の中に存在していることを知ると理解しやすい。
彼らは自分の作ったルールを常識と捉えてそれを前提にして生きている。
だから彼らにしてみれば、意識せず前提としているルールついて指摘されてもなんでいきなりそんなことを言ってくるのか意味がわからないし、それを自分の思想だとも認識していないので説明することもできない。

健常者からすれば「なぜ青信号で渡ったんだ」と言われるくらい突拍子もないことなのだろう。
言うまでもないことだが、青信号で渡ることは常識であり正しいことである。
その当たり前に存在しているルールに沿って青信号を渡ったら支離滅裂な言い分で突っかかられて青信号で渡った理由を求められた、というような状態。
自己愛性人格障害者からすれば、自分のルールについて指摘されるというのはこの会話くらい意味のわからないことなのだ。

すべて相手に原因があると思いこむ

何か問題が起こった場合や前述の「なんで?」「違うの?」で相容れない状況はすべて相手に原因があると思いこむ。
彼らは自分の作り上げたルールに従って行動しているだけなので自分自身が問題を起こす原因になるなどあり得ないと思っている。
彼らにとって自分が正しいということは疑う余地のない事実であり前提なのである。
自分の言動を正しいと信じてやまない以上問題が起こったのも相容れないのもすべて相手に原因がある以外には考えられないのだ。
自身の正当性を主張するために相手を悪者にしているのではなく「自分は正しいのだから原因は相手にある」という辻褄合わせなのである。

奇妙な口癖「わからない」

彼らが自分で作り出したルールが成立しなくなった時に言う口癖。

共感性がなく傲慢なのは「ルールを定める人格」であり、それを除けば主体性も判断力もない非常に薄っぺらい「ルールに従う人格」だけが残る。
自分で定めたルールに正しさを見いだせなくなった自己愛性人格障害者は、従う対象がなくなり何も判断できなくなる。
だから謝罪や反省の場で「なぜそんなことをしてしまったのかわからない」「今後どうしたらいいかわからない」など、はたから見れば無責任、他人事、回避のように見える言動しかできないが本当にわからなくなっているのだ。

彼らにしてみれば無責任や他人事という感覚はなく一貫性がある。
自分の定めた異常なルールに従って行動をする自分、非難されて世間の評価に従って自身の身の振り方をしようとする自分、当人にしてみればどちらも等しく愚直で誠実なのだ。

この「わからない」は、前述の「違うの?」をひとつひとつ懇切丁寧に説いていった先にある。
自分が常識だと思っていたものは間違っていたんだ、そのルールは自分が作り上げていたものだったんだ、と自己愛性人格障害者当人に理解させる必要がある。
一般的に健常者は自己愛性人格障害者に対してそこまで親身にならずに気持ち悪がって離れていくので、この段階を見たことがある人はあまり多くないのではないだろうか。

この状態にまで行くにはかなりの労力がかかり疲弊し、且つ得るものが何もないのでおすすめしない。
自己愛性人格障害と思われる著名人の謝罪会見などを見れば早い。
2020年記憶に新しいところだと、アンジャッシュの渡部氏の謝罪会見がそれに該当するだろう。

似たようなメンバーのコミュニティをよく作り、よく壊す

彼らは細かいコミュニティを多数作る。
全く異なる界隈であれば理解はできるがそうではなく大体同じメンバーで少しずつメンバーを変えてコミュニティを形成する。
そのコミュニティで何か問題が起こるとそのコミュニティを解体に持ち込む。
そして似たメンバーの別コミュニティに活動をシフトしていく、つまりそこに含まれない少数の人を排除する。
もしくは少人数のコミュニティを解体して、その少人数全員が含まれる大きいコミュニティで何食わぬ顔をして存在しているというのも往々にしてある。

ここでいうコミュニティとは、SNSにおける複数アカウントであったり、ラインのグループなど。
彼らは自分のコントロール下に置ける単位のコミュニティを多数作るのだ。
そして彼らは他者と折り合いがつかなくなっても、対個人には関係を崩そうとせずコミュニティを崩壊させる。
崩壊させるとは、捨て台詞を吐いてグループを抜けるなど幼稚な言動が多い。
残された人たちは彼らの去り際の言動に嫌気が差し、そのコミュニティに寄り付かなくなり誰もいなくなる。
そして不快感を与えて去っていったにも関わらず何食わぬ顔で別のコミュニティに現れるのだ。

彼らは複数のコミュニティを支配下に置いて交友関係が広かったとしても、特定の誰かと特別仲が良いということはない。
中心人物のように存在していても誰とも親しくないのだ。
交友関係にある人の大多数が彼らの異常性に気がついていたとしても、それを指摘するような個人的関係性はなく指摘するような決定打もないので誰も何も言わない。
だから問題が表面化しづらい。
しかし彼らからすれば、要領よくやっているので誰にも指摘されない、一目置かれているので誰も言う立場にない、などと思い込んでいる。

安心できるのは共依存の関係か支配できる相手だけ

彼らは共依存の関係にあるか相手をコントロール下に置くかでしか自己の安全性を確保出来ない。
つまり自分に依存していない相手や思い通りに動かせない相手に対して安心できないし、相手に対してどうすれば自分が優位的にいられるかを基準に生きている。
だから常に攻撃性に支配され勝ち負けで物事を見ている。

思い通りに動かせる人の特徴は以下。
・社会経験が浅く自分のルールを突きつけられる人。
・コミュニティを横断するだけの人脈や影響力を持たない人。

つまり社会から孤立させて自分のルールに従わせることの出来る弱者を好む。

こちらが悪者にされないために

彼らはプライドが高い。
それは彼らの言動から一目瞭然なので、空気を読んだ健常者は彼らに対して何か指摘する時に気を使って1対1の状況を作って話をすることがあるがそれはやめた方がいい。
嫌な言い方になるが、第三者のいるところで証人を作るようにした方がいい。
その第三者が彼らの取り巻きに落ちていない限り、多くの場合声に出していないだけであなたと同じように思っている。

彼らは指摘されたことで「あいつは気が狂った、困ったやつだ」などとこちらを異常者のように扱ったり、
もうないなと愛想を尽かしこちらが何も言わず距離を取ったら「あいつは何も言い返せなかった、言い負かしてやった」と扱うなど、
こちらのいないコミュニティで勝手に悪者にされていることも少なくない。
しかし彼らは他者を貶めようと主観で動いている訳ではなく「起こった事実を客観的に言っているだけ」という感覚なのだ。

もしも指摘する必要があるのであれば、彼らへの指摘をする様子も、それに対して彼らが捨て台詞を吐く様子も、第三者が見ているところでやって終わらせたほうがいい。
ただしその第三者が取り巻きだったり該当の自己愛性人格障害者との関わりが浅い人の場合には「何の問題も起きていないのに非難し始めた」「問題を起こした」と映ってしまうので誰を証人に選ぶかは重要である。

しかし一番賢明なのは、はなから関わらないことである。
彼らと直接関わることで得られるものは後にも先にも何もない。
あなたが親でも教師でもない限り、相手を諭してやる必要も義理もないのだ。

自己愛性人格障害者は裸の王様

ここまで書いた内容からわかるように、自己愛性人格障害者は我々健常者とは違うルールで生きている。
彼らは自分で作り出した非常識な自分勝手なルールを常識として、コミュニティの創造と破壊を繰り返すことで都合の良い人だけを選別し周りに置いて生きている。

自己愛性人格障害者というのは、国民が0人の国の王様のようなもの。
童話の「裸の王様」の王様にどうやったら自尊心を傷つけずこちらが危害を被らず何事もなく服を着せることが出来ただろうか?
それが自己愛性人格障害をサポートする立場にある人(家族とか)に求められる振る舞いなのではなかろうか。
「自尊心を傷つけず」というのは「当人が憤慨して拒絶する理由を回避する」という意味だが、そこまで気を使っている時点で人間関係としては既に終わっているのだ。
嘆かわしい…。